昭和45年11月03日 朝の御理解
御理解 第25節
「信心は大きな信心が良い。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
「信心は大きな信心が良い」と。小さい信心ではいかんとは仰って居られんですね。「迷い信心ではいかぬ」と仰って居られる。ただ大きな信心大きな信心と言うても、何でも始めからそんなに大きいものがあるはずありません。やっぱり小さい所から段々お育てを頂いて、大きくなって行くと云うのが本当だとこう思います。ね。ただ「迷い信心ではいかん」と仰られる。
その為には「一心と定めい」と。一心と定めておかんと育ちも致すまいし、愈々迷いが生じて参りましょう。ね。「一心と定めい」しかもそれが次第にお育てを頂いて、愈々大きな信心に育って行くと言う事。三代金光様いわゆるご在世頃、の頃ある宗教新聞の記者が、金光様に一問一答を試みた。その問いの中に、金光様あなたは毎日こうやって、御神勤のになられて、朝の御祈念をして下さいますが、大体どういう祈りの中心ですね、どう言う事を願われますかと仰った。とお尋ねした。
そしたら金光様がね「はい世界の真の平和を願います」と仰った。「はい世界真の平和を願う」と。それであのう新聞記者の方が「それはあまりもの大きな、具体的に言って下さい」と言う様な事を申し上げた時にね「はい大は小をかなえます」と仰ったそうです。もう一言も無かったと言う事「世界真の平和を願います」それはあまりにも私共、信心の無い者とか信心のまあ幼い者はです。
あまりにも漠然としとりますけれども、金光様の場合はその大が小を適える程しの、小さい言うならば厳密な緻密なご信心でおありになったと言う事が考えられますよね。ある教師に対してね。「今此処のお広前の上を飛行機が通りますな。私は何時もあの飛行機が、あの音を聞きますと目的地に無事に着いて御用を果たして、また無事に帰れます様に祈ります」今あそこで赤ちゃんが泣いて居られます。
どこにか赤ちゃんがね、泣くからにはそこに何か原因がある事であろう。痛い痒いがあるのかもしれません。むずがって居るその赤ちゃんが泣いて居るのを聞かれては「どうぞ神様、機嫌ようおかげを頂きます様にと言うて願います」と仰った。ね。成る程世界真の平和、いうなら世界中の事、世界総氏子の事世界中の事、隅から隅までの事を願って居られる。けれどもその内容たるものはです。ね。
飛行機が通れば飛行機の事を、赤ちゃんが泣いて居ればその赤ちゃんの事とでも、願われるという程しの、言うなら些細な事でも、祈り願い言うて居って下さる。そういう内容が積もり積もり、高めに高められ、ね、育ちに育られての事なのですから、成る程新聞記者にお答えになったように「大は小をかなえます」と言う事になって来るのです。ですから、信心は大きな信心が良いと言われても。
始めから大きな信心が頂ける筈がありません。小さい矢張り信心からそれが段々お育てを頂く事によってです、大きく育って行かなければなりませんが、まあお互いに信心を振り返らせて頂きますとです。育たない育っていない。私ふっと今日は去年の今日は、丁度椛目の結成式であったなぁと、御祈念中に思い出させて頂いてから、改めてその事をお礼申させて頂いたんですけれども。
もうあの時から一年になる。果たして自分の信心がどれ程成長を得たであろうか。どれだけ言うなら小さい信心から少しは大きな信心になったであろうかと思わせて頂いて、代わり映えのない自分に、本当に相済まん事だなと思わせて頂いて居ります。昨日から本格的、此処に吉備楽の来賓の方達が来て、笙、篳篥(ひちりき、笛の稽古があっております。笙のいわゆる、篳篥のねもう何とも言えん先生が吹かれますそのう、音がねお広前一杯に広がって素晴らしいなと思うんです。
所謂ミヤバラ先生という方ですけれども、青年会の時代によくお付き合いを頂いた先生ですから、昨日七時頃から典楽一時間余りに時間を二人の昔の信心のよもやま話にふけらせて頂いたんですけれども。私が先生の事をですね。二十歳の時で御座いました。母と一緒に連れられましてから、初代の親先生のお取次ぎを頂きました。小さい時からその月次祭大祭にお参りさして頂いては、楽人さん達の一つの憧れを持って居られた。
特に笙篳篥とかそういうそのう、小さい時から楽人になりたいという希望を持って居られた。また好きでもあった。それでね親先生にその事をお取次ぎを頂いてお願いをした。事の話をなさって下さったんですけれども、それを頂いてから大したもんだったな、石橋先生はと私は思いました。と言うのはですね。母親ともう二十歳になられて、しかもそんな好きでたまらんから楽の稽古をさせて下さいとお願されたらですね。
石橋先生がこう言うて居られます。「吉備楽はね面白いものではないから止められたが良いでしょう」と仰ったそうですよ。もう大概なものならですね、楽になりたいと言って来るなら「はあそりゃよか幸い、愈々稽古しなさい」とまあ言うたでしょう。はぁあるいは確かに御神徳家であったなぁと私はそれを聞いて思いました。「吉備楽は面白いものではないからお止めなさい」と仰った。ね。
昔あのう、椛目時代皆さんが御本部参拝をされる時、一人ひとりがお伺いをしてからで御座いましたがね。今度仕事をさして頂きたいと思いますがと、そらお祭り行ったが良かろうでは又まあ今度はお参りするのを家に居られたが良かろう、と言った様な事がありましたね。昔はそうでした。一人でも多くを駆り集めてからでも出て参ろう、と言った様なものでは無くてですね。ご神意を頂いて、お家に居らなければならない人はお家に居った方が良かろう、と云う様な時代が椛目の時代にありましたよね。
ただそんな事を昨日あの思い出させて頂いたんですけれども、まあそれとこれとは勿論、大分違った内容ですけれども、確かにこれは石橋先生は偉かったな、大した御神徳家であったなと思いました。それをもうたんたんとしてポンと向こうの方へ突きやって居られます。「吉備楽はおもしろいものではないから止められたが良いでしょう」と仰った。さあ言われれば言われるほど募ってくるのが人情です。どうでもと言うてお願いされたら、「そんなら、神様にしっかりお願いをなさって始めなさい」ちゅう事でした。
今は六十い幾つで御座いますかね。いわゆる四十年間、いわゆる笙、篳篥で、特に篳篥はもうおそらく、本部ででもでしょうが九州きっての名手です。そりゃぁもう何とも言えんですね先生の篳篥は。それがあのうここで、やはりそのう笙篳篥、笛と篳篥の名手と言われた広島さんと言う方が、あの篳篥と笛を此処に奉納して居られますよね。あれを今度ご自分でしたと言いますかね、あの術を。
自分で綺麗に作って来て下さいましてから、それで昨日吹かれましたから、それはもうそれは何とも言えんその音色ですね。その笛もその篳篥も素晴らしい。それこそ当時の小原が、小原楽長それを賞されたと言う程しの物ですから、そりゃ立派な物です。もう今頃九州中これを使う人とかありますまいち言う。十万二十万じゃ買われんと言って居られます。それをその素晴らしい笛が、素晴らしい吹き手に、委ねられるのですから良い音が出らんはずじゃですよね。
それこそ四十年間いうなら吹き続けて来られた。私は信心はねやっぱりそううもんでなからなければ育たないと思うですね。「好きこそものの上手なれ」と言うが始めから好きなものじゃないに致しましてもです。ね。私は合楽での信心をこうして稽古さして頂きよったら、もう好きにならなければ、まあ一遍はぼうけてしまうぐらいなものを、そういう内容を合楽は持っとると思うんです。合楽の信心は。ね。
だから好きにならにゃいけんです。本当に御理解を頂いておったら、神様の何と言うか叡智とでも申しましょうか、神様の知恵ですよね。一つの御理解でも先日あのう「萩桔梗、中に玉章しのばせて」というあの御理解を頂いた時に、日田の綾部さんが「神様ちはどんな事でもご承知なさる。なんと言う素晴らしい表現でしょうか」ち言うてその、たまがられた。本当にぼうけずに居られんです、ああ云う御理解頂きよったら。ね。
分からせにゃおかんという働きではなくて、何とも言えん一つの常習というかね趣というか、本当にその例えば御理解を、頂く御理解をその味合わせて頂くと言うか、ね、それを行じていくならなおさらの事有り難い事になってくる。昨日御祈念が終わってからでした、朝の御祈念が終わってから皆さんお取次を願われてる時に、久留米の佐田さんが「先生の今日の御理解中にこの様な事を頂きました」と言うて、横額に掛けたような横にその、字が書いてある。それに「素直に改まる」と書いてある。
素直改まるそして、もう一字此処に入れなければならない。だから行じるがそれに来ます。例えばその一字の所だけが空けてある。丁度昔あのクロスワードなんて言うのがありましたですね。何も書いて無い所に字を入れて行くという「そこに氏子なんと入れるか」と言う神様の質問であった。色々考えられたけれど分からない「先生、此処にはどういう字を入れたら、一番適当でしょうか」私昨日お参りして来た一人ひとりにそれを書いてから「あんたなら此処にどげん入れるか」と言うて。
色々やっぱ皆さんが入れられました。皆さんならどうでしょうか「素直」ね「改まる」だからまあ、言葉で言うと、素直に改まると言う事でしょう。だからそこにもう一字の字を入れて、今の合楽の信心にピタッと来る様な、いわゆるその一つの言葉にするには、そこにどう云う字を入れたら良いと思いますか。これも矢張り昨日の御理解中に善導寺の久保山さんが頂いて居られる事ですが。
この四日から合楽の、信奉者の皆さんが、ね、打って一丸になって幹三郎の病気平癒祈願をなさろうと言う様な、話し合いがまあ出来て参りまして、もう実を言うたら皆さんが一生懸命もうそのう、日々お取次を頂いてお願いをなさって居られます。どうも出来ない程しの時に盛り上がる。ね。「一身の真を捧げての願いになろう」という今月の焦点にピッタリ、もう今月という今月はもう。
そこに焦点を置いて祈らなければ居られないと言う様な衝動をですね、全体の中から感じる様なものをお取次さして頂く中から感ずるんですよ。有り難い。昨日申しました。ああ自分の息子の事を願って頂くから嬉しい。けれどもその嬉しい事にも勝って有り難い事は。そういう信心の焦点に、そういう素晴らしい事に願いを持ってですね、皆さんが打って一丸になられると言う事が、優に私は有り難い事だと言うふうなふうに申しましたようにですね。
その事をね、頂いて居られる時に頂いて居られる事が、「教会愛がそうさせるのだ」とういう意味の事を頂いて居られるのです。教会愛。私それ頂いてから適切だと思いましたね。あれはもう幹三郎個人の事じゃない。教会長の息子だからと言う様なものではない。合楽教会をね、いうならば愛して居るからこそ、その教会愛に燃えて居るからこそ、こういうふうな場合に打って一丸になった祈念信心、一心の真を捧げてでも祈ろう願おうというような事になって来るんだ。
いわゆる幹三郎の病気が全快する様にと言う事もちろんですけれども、ね、その内容がね、どこまでもその教会愛がそうしからしめるのだという意味の事を頂いて、それを聞かせて頂いて素晴らしい事だなぁと、私はそこん所をですこうやって皆さんの信心が盛り上がって来る事をです、どういうふうに表現して良いか分からなかった。けれどもその久保山さんの、その事を頂かしてもろうてです。
成る程そうだなと私は思うんです。と言う様にです、もう頂けば頂くほどその味というか味合いに、佐田さんのその事と言い、ね、久保山さんの是はまあ昨日1日だけの事なのですけれどもです。信心の稽古さして頂きながら、神様と私共がね交流しなければやまない。神様を好きにならなければおられない。信心が好きにならなければおられない。熱中しなければおられないと言う様な内容がね、その様にして日々私の信心の稽古の上にです、ね、まあある場合は騙しすかしと言われる様な事もある。
またお叱りを頂く様な事もある。その例えばその神様が私共の信心をお育て下さる事の、その手練・手管とでも申しましょうか。その素晴らしさに 唯ただ信心が好きに成らなければ居られないと云う私は物が合楽にはあると思うんです。ね。そこでね私共が「一心と定めい」と最後にこう仰っておられる。「一心と定めい」と。一心と定めて信心を解からして頂こうと言う事になるならばです。
合楽の場合は絶対に育つと私は思うんです。ね。ただおかげを受けると言う事にですかね、一心に定めてあるというのではね、時々迷いが起きて来る様な事になって来るんじゃないか。ね。痛い事があろうが、悲しい事が起こって来うが、痛い悲しいの中にもです。ね。お礼を申し上げなければ居られない、信心のお育てを日頃頂いて居りますから、迷いの起こるはずがない。信心が段々おかげを頂いてから、いわゆる内容もです。ね。
ま最近の私の信心で言うなら、ようやく今年今年に入って世界真の平和とか世界総氏子のとまではいかんに致しましても、ね、とにかく世界の隅々のいわば、総氏子がです。ね。そら戦争しながらでも良い、難儀しながらでも良い、とにかく今月今日が立ち行く事をです。もうこの願いはもう実に切です私は。今まで過去の信心にはそんな切なものは無かった。ね。とにかく一番実感する事は自分の事。自分に直接関係のある事。
だからそれでなからなければいけんと私は又言うても来た。神様にお願いするのに、実感が無い事をただ「天皇陛下のご安泰をお願いします」と言うて天地の切を忘れるごたる事でね、天皇陛下の事を願ったっちゃダメだと、と言う様な生き方だったんですね。それが何時の間にかお育てを頂いておる証拠にですね。世界の隅々の人達の上に、様々な環境、様々な難儀な中にあっても、とにかく今月今日が。
今月今日が立ち行けばいい、今月今日の立ち行きを願わなければおられない。と言う願いが切である。なら私自身がそうなのであるね、二十年間経ってようやく、けれどもそこに代わり映えの無い自分の信心を思いますけれども、一心と定めておる。だから勿論迷いなどが起こるはずもない。何かの度んびにおかげで信心が少しずつ飛躍しておる。育って来ておる。お礼を申し上げてもお礼を申し上げても、尽きる事ではない。
お詫びさして頂きゃもう、もうどれ程お詫びさして頂いてもお詫びさして頂いても、これで済んだとは思われない程しのお詫びをする事の多い事に驚く。というて願わなければならなん事はまた大きくて切である。そういう切実な願いを神様へ向けさせて頂きながら、私が今日申します信心のいわば素晴らしさ、いうなら御教えの素晴らしさ。分からせねばおかんやまんという神様の、ある意味合いにおいての手練・手管の素晴らしさに、私共が信心のお育てを頂いて行く事の楽しみというものを喜びというものを。
身に付けて行きよらなければならない。そこに信心が好きではなかったけれども、信心が好きになる。ね。場合には石橋先生じゃないけれども、ね、「信心ちゃそげん面白かもんじゃなかけん、止めなさい」と言わんばかりに突き放される様な事があっても。止むに止まれんものが、そこにある限りです、ね、それでも矢張り願うて行かなければ、という様な迫力を持っての信心をなされて行かなければならない。
どうでしょうか。お話をさして頂きながら、昨日佐田さんが頂かれた、最後に一字なさる所に何か浮かんだでしょうか。ね。「素直に改まる」皆さんならどういう字をそこにお入れになるでしょうか。今の合楽の信心の焦点。佐田さんがその事をお願いされました。「先生此処にどういう字を此処に入れたら良いでしょうか」まあ自分でも十分御祈念中に考えられた事に違いないけども、適切な言葉が思い浮かんで来なかった。そこでお伺いをされた。そしたらね。
御心眼に日田の綾部さんの半身の上を頂かれた。昨日久保山さんは半身の下を頂かれた。ね。体から下を私は綾部さんの半身をこう頂いた。もう其れと是とを一つにすると大体一つになって来るわけなんですけれどね。それで私は直感しました事はですね。まあだ信心を始められて一年とちょっと位いですけれども、実に素直であると言う事ですね。しかも高芝さんが言われる様に、自分があちらにお店に行った時と今日の変わり方というものは、回れ右をしたほどしに変わって居られると言う事をいつも言われます。
こりゃ高芝さんが言われる。ね。素直であって例えば大変な難しい問題、もう本当にあの時ばかりはと言う。昨日も来てからその事を言うて居られましたが、ようあの時に「はい」ち言われたこっじゃち言うて自分で言うて居られます。そう言う事が一年間の間に何回もありました。それでもち言わなんごたる事もですね、もうその「はい」の素晴らしい事がね、お伺いなされて、で「それは右が良いでしょう」「はい」もうこげなふうな「はい」ですね。綾部さんの「はい」は。そしてそれをもうピシャッとそのう、回れ右をされる。ね。本当に長年信心の稽古をしとっても出来る事じゃない様な事。
昨日私はその、いわゆる「素直に改まる」と云う事を、のですね、一字あなたどげん入れなさるですかと言うて申しましたら、もう本当に、あっ「素直のごとしていっちょん素直じゃありません」と「改まってるごとしていっちょん改まって居りません」とこう言われる。そりゃぁ改まる事において素直に、限りなく素直になって行くち言う事を、申しあげましたら 成程まあだまあだ素直さがそれでよい言われて行く事は決してありますまい。改まる事においても素直になる事においても、ね、
けれどもまあ漠然としてですね、まああなたは大体素直で、また改まって居られるから今日の綾部さんがあるのだと。もう最近は人に物をやる事が非常に好きで、例えばあちらの、義理のお母さんに当たられる方、まあその事隠居隠居とこう言うて居られますが、隠居の所にはもう何時っつも、何万もするような反物やらいろんな道具やら買うて来てやったっちゃ、それを一っつも喜ばれなかった。所が先生この頃はもうちょいとした物を買うて持って行っても非常に喜ばれる。
とにかく今までのね、ただやる時期とかその過ぎる事でいくらしても、けれども此の頃はそこの内容が信心に成って参いりましたらね、相手がそれを喜んで受けてもらうとこう言うのである。と言うほどしに変わって居られるんですよと言うて昨日も話した事でした。物一つあげるでも内容が変わって来た。ただやれる身だけではない、ただ美しいからだけではない。信心でそれがなされる事になって来た。
時にそれを相手に喜んでもらえれると言う事になって来た。だからその綾部さんの上半身を頂かしてもろうてその、直感した事はいわゆる素直に改まると言う事がこう当てはまる感じがする。成る程この人だな。ならこの人にもう一つ素晴らしい所はです。ね。捧げて喜ぶと言う事である。人に物をあげたりお供え物をしてしかもそれが垢抜けしておる。ね。そこでどう言う事になるのでしょうかね。素直に改まって「捧げる」と言う事になります。「素直に改まって捧げる」ね一身の真を捧げての願い。ね。
素直にだから素直に素直にと改まって改まってと言うのは、いわば今までの信心ですよね。これはもう二十年間言われ続けて来た事。ね。それにいわば「素直に改まって捧げる」と言う字の中に一字が入った時に今の合楽の信心に来る、ならピタッとなるわけです。しかも「素直に改まって捧げる」そして「願い」になって来るわけ。「素直に改まって捧げて願う」そう言う信心に、いわば育って行かなければならない。素直改まったね育って行きよるでしょう。そして捧げる。
愈々育って行きよるでしょう。そして今言われる「願う」と言う事になって来る。その様に私は小さい、だからね「信心は大きな信心が良い」と仰せられてもです。始めから大きな信心なんてあろうはずがない。やっぱり始めは一から、ね、いわゆる順序を追うて段々、私二十年かかってようやく、いわば世界の事が何か実感をもって願えれる様にです。ね。神様のいわば、手練・手管をもってお育て下さるその、それにいわば、便乗さして頂く様に楽しゅう嬉しゅう、そりゃ苦しい事もある。
悲しい事もあったけれど、その事ですら有り難い事として信心を続けて行く所からです。信心が育って来た。それは一心と定めてあるからそれが出来て来た。その神様のいわば御教導にあいまって、おかげで信心が段々育って来たと言う事になる。「信心は大きな信心が良い。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい」という25節を今日は私、始めから大きな信心なんて言う事はありえない。ね。お互いの小さい信心からね。
やはり育って行く。だから少しずつでも育って行って行きよる所に、信心の楽しみ喜びと云うものをね、感じさして頂ける信心。「這えば立て。立てば歩めの親心」とね。これが神様の願いなんですから、まず始めは這い這いから、ね、立って歩かして頂けれる信心に段々、合楽の信心は育って行きよります。果たしてそう言う信心に便乗さして頂きながら、お互いの信心が大きく育って行きよるかどうか。「いや、この調子で行くなら育つぞ」とい言う見通しがついておるかどうか、ちょっと考えてみなければならんと思いますね。 どうぞ。